”有名人”の話題ッ!! 若かりし「中居正広」は激怒した。 や、『TOKIO』の「城島茂」のDASH村・福島”東日本大震災”体験記など。

カテゴリー「話題」 人物

”有名人”の話題ッ!!

モノトーン、嘆きや悲しみ、泣くなどの表現に

”経験や体験談の”
ー ”思い出” ー
の図


コンカイは、


若かりし
「中居正広」

 激怒した。



『TOKIO』
「城島茂」

DASH村
福島での
”東日本大震災”

その体験記

などの

話題を
 見ていきます。

case.1「美山加恋」 の場合

人気子役として
活躍した

女優
「美山加恋」
(27)


3日までに
自身の
インスタグラムを
更新し、


8キロ減量した
 姿を披露しました。


1日放送の
フジテレビ系ドラマ
『院内警察』
第8話に
出演した
「美山加恋」。


その時の役柄について
「美山加恋」は、


(同ドラマで、) 


長濱ねるさん演じる

川本の同級生で、


病院に緊急搬送されて
きますが…

なぜか

(や)せ細った
 姿に」


「画面を通しても 

伝わるように、


本気で役作りに

 挑みました」


と、
その時の
写真をアップ。


写真の
「美山加恋」は、
顔がかなり
”ほっそり”し、
首も骨が
浮き出ている
様に…。


「美山加恋」は、
同ドラマの
放送終了後に、
ストーリーズを
投稿し、


「初めて 


本格的な減量をし、

―8kg減

 しました。

 (現在はすっかり元通り笑)


(女性なら1~2割ぐらいの
減量にあたる?)


と、
役作りで
痩せたことを
明かし、


「美山加恋」は、


「減量をしている時間は、


同じくらい

(演じた)

茉莉の心と

  向き合った時間。」


「どこに向けたら 

いいかわからない

怒りとか、


悲しみ、
くやしさ。


茉莉の心は


 苦しかった」


(そのことを、) 


画面を通して
届いていたら


  うれしいです。」


「            

ありがとうございました!


            」


と、
振り返ってくれ
ました。


この、
別人のような姿には、
「『美山加恋』の
役作りすごい。
病的に
痩せてるように
見えた。
プロだッ!!」

「めっちゃ痩せてる」
「本当だ。痩せすぎ」

「あの、りんちゃん?」

との声がありましたね。


役作りのために

体を追い込む姿に


 敬礼。

敬礼

ー ”敬礼” ー
の図

case.2『YOASOBI』 の場合

音楽ユニット
『YOASOBI』


2日に都内で行われた

『クランチロール 
 アニメアワード2024』


オレンジカーペットに
 登場しました。


『クランチロール』
(Crunchyroll)
は、
200以上の
国と地域で、
”アニメ”や「マンガ」を
提供している
ストリーミングサービス
で、


その『クランチロール』
による同アワードでは、
”世界中”の
アニメコミュニティ
から集まった
『3400万』を超える票
を集計し、
2023年の
「ベストアニメ」
を決めます。


同アワードでは、


『アニメ・オブ・

 ザ・イヤー』


や、
登場キャラクターに
スポットを当てた


『最優秀主演 

 キャラクター賞』


まで、
様々な表彰を
行います。



『YOASOBI』は、
今や日本を代表する
音楽ユニットにまで
成長し、

アニメ
『推しの子』
の主題歌として
書き下ろした、
楽曲
『アイドル』
が大きな話題を
呼ぶなど、
”アニメソング界”でも、
その「注目度」は
高まり、


今回の、
この日の国際的な
アニメアワードの
イベントにも、
ゲストとして
『YOASOBI』が
登場しました。


同アワードには、
その他に日本からは、
「武井壮」、
「ROLAND」、
「LiSA」、
と言ったメンバーが
”ドレス・
スーツスタイル”
で現れる中で、


『YOASOBI』の
”2人”は、
ジャージに
スニーカーを合わせた、
「ゆるいスタイル」
の格好で
カーペットへ
登場。


『YOASOBI』の
「Ayase」は灰色、
「ikura」は茶色の、
”リラックス感”あふれる
コーディネートを
披露して、
笑顔を見せてくれて
いましたね。


己のスタイルを

貫く

 ファッションでした。

ヨーロッパやヨーロッパの街並み、観光や旅行などの表現に

ー ”コーデ” ー
の図

case.3「中居正広」 の場合

”元”アイドルグループ
『SMAP』で

現タレントの
「中居正広」
(51)


1日放送の
TBS

『中居正広の金曜日の
 スマイルたちSP』
(金曜、20:57~)

に出演。


かつて

自身が出演した番組で、

ブチギレた様子が

オンエアされて、


謝っていましたね。


この日の
放送では、


”ありえないにも

ほどがある!


昭和・平成バラエティー

 波瀾万丈”


をテーマに、
昭和・平成の
テレビの
はちゃめちゃぶりを
特集しましたね。


その中で、
”視聴者参加型の
討論番組”
に、
スポットライトが
あたり、


「中居正広」も、
1999年開始の
TBS系列
『中居正広の
家族会議を開こう!』
で、


一般の来場者に
鋭い眼光で
キレ倒すと言う
場面が登場しました。


同番組では、
若者がスタジオに
多数来場し、
自らの意見を
ぶつけ合う
討論形式になっており、

今回、放送された
同番組のVTRには、
いじめられた
経験のある少年が、
お守り代わりに
手首にリボンを
巻いていることを、

当時、
ひな壇にいた
参加者の若者が、
「やだ!」
「キモい!」
と、
からかう場面があり、
そのことについて、
VTRでは
当時、28歳だった
「中居正広」が
怒りをあらわにして、


「バカヤロー!

(それの、)

 何が悪いんだよっ!」


と怒鳴ると、


先の若者からさらに、


(”当時”として、)

「男が

レースのひらひらした

花をつけているのは

 納得がいかないんですよ」


と言い、


それに
「中居正広」は、


「なんて?

納得いかない?

納得いかねえって


 どういうことだよ!」


(それで、) 


納得できなきゃ

 いじめるのかよ。」


「なんでそういう 


 言い方すんだよ」


と、
指を向けて
相手に
問い詰める中で、


先の若者は、
続けて、


「気持ち悪いもんを 

気持ち悪いって

 言っちゃいけねえのか」


と突っ張ね、


それに対して
「中居正広」は、


「そんな言い方 

すること

 ねえだろ」

(伝え方として)


と言うと、


若者は、


(討論会場の) 

この場だから

 言ったんだよ、

イジメられるてから、

なんか理由が

 あるんだろって。」

(容姿や格好に問題ありと思うと…)


(それでも、
一方的に傷付けるだけの
言葉にする
 意味はありませんが…。)


「イジめる側に 

そういう理由が

 あるんだろ」


(”主観”や「感覚」で言えば、


どれでも、まして、
自分自身にも、

当て嵌まる
可能性のある理由
になります。)


と応戦。


しかし、
これに
「中居正広」は、


「お前に言われる 


  筋合いはねえ。」


「おい! 


なんだ、

 この野郎」


と、
怒りが爆発して、
相手に
歩み寄りそうに
なりますが、

当時の共演者の
「東国原英夫」
が慌てて
「中居正広」を
抑えて、


「話し合いだからね」


と、
「中居正広」の
怒りを収めて
いました。


けれども、
その後も、
「中居正広」は
相手を睨み続けて
いましたね。


ここで、
VTRは終わり、
現代のスタジオに
戻ると、
「中居正広」は、


(当時は、)
「アイドルの全盛期でした」


(勢い余って、)

「すみませんでした」


と、
勢い余っていた
理由を明かして、
放送では、
画面を見つめたまま
謝罪されて
いましたね。


ちなみに、
番組のPR映像でも
この場面を振り返って
「中居正広」は、


(この時は、)
「正論を言おうとか、


熱い思いを届けよう

 とかいうことじゃなくて、

本当にただ

キレていた

 だけです」


と、
苦笑して
いましたね。


それでも、

少年にとっては


救いになったと

 思います。

メガホンや各監督、報告や放送、連絡などの表現に

”言葉による”
ー ”救い”と「傷付け」 ー
の図

(同じ言葉なのに、あり様が…)

case.4「賀来賢人」 の場合

俳優
「賀来賢人」
(34)


2日に、
SNSであるXを
更新。


メジャーリーグ
『ドジャース』

「大谷翔平」(29)
選手



この日配信された

『Number Web』

独占インタビュー内で、


「賀来賢人」が
主演する
ドラマ

『忍びの家
 House of Ninjas』

について
触れたことを

大喜び

 しましたね。


同インタビューでは、
「大谷翔平」は、
2月29日に発表した
結婚相手について、


「2歳下」


などと、
3月1日に行った、
囲み取材の
会見の時よりも
詳細に語る場面が
ありましたね。


その
インタビューの中で、
日本に住んでいた妻と、
米国に拠点を置く
「大谷翔平」自身が、
遠距離でのやり取りで
親交を深めて行き…、


リアルタイムで、
”2人”で
ドラマを
「同時試聴」
しながら、
ドラマ内容を語る
『オンラインデート』
を行っていた
ことも明かして、


「大谷翔平」は、
その時の
”オンラインデート”
で視聴していた
具体的な作品に、
TBSの
『VIVANT』や、
また、
現在見ている
ドラマとして、
Netflixの
『忍びの家』
の名前を挙げて
いましたね。


この
「大谷翔平」の回答に、
ドラマ『忍びの家』に
主演する「賀来賢人」は、
自身のXで、


「大谷選手 


ご結婚

 おめでとうございます!」


「ご夫婦で 


#忍びの家


見てくださってる

とのことで



社内が

 大大大パニックです」

(反響や影響的に)


(夫婦揃ってのご視聴)

「ありがとうございます」


(ドラマ配信会社の) 

#Netflix

  すげぇ、、、」

(視聴される”範囲”がッ!!)


と、
興奮を隠せない
様子でしたね。


ドラマ『忍びの家』
は、
現代に生きる
最後の忍び家族を
描いた完全
オリジナルストーリー
で、

「賀来賢人」は、
主演の他、
原案や、
”共同
エグゼクティブ・
プロデューサー”
としても、
製作陣に
名を連ねて
います。


”ビックリ”

 反響でしたッ!

呼びかけや掛け声、話しかけるなどの表現に

”デートとして”
”作品、使われているよ”

ー ”マジでぇッ!!” ー
の図

(”ありがとうッ!、大谷選手ッ!!”)

case.5「水谷隼」 の場合

2020年
(2021年)
東京五輪卓球
混合ダブルス
での

金メダリスト
「水谷隼」
(34)


3日に、
フジテレビ系

『ワイドナショー』
(日曜、10:00~)

に出演し、


金メダル獲得時の
パートナー

卓球女子の
「伊藤美誠」
(23)

との

現在の関係に
ついて

 言及しました。


番組では、
先月の2月の
卓球世界選手権
団体戦で、
銀メダルを獲得した
女子チームについて
特集し、


その中で
「水谷隼」は、
元パートナーの
「伊藤美誠」
について、

パリ五輪代表からは
外れながらも、
代表のリザーブ
として参加する
彼女について、

東京オリンピックで、
中国を破って
金メダルを
獲得した際の、
ペアを組んだ
彼女の決勝での
精神力の強さなど
を伝えて、
「水谷隼」は、


(彼女は、) 


自信に満ちあふれてて、

中国の相手選手が


(対戦している、)

『びびってる、びびってる。

大丈夫だよ』


僕に

めっちゃ

言ってくるん

  ですよ。」


(でもその時は、) 


僕も

びびってるんですよ、


 ぶっちゃけ」


と明かし、
スタジオ内は
大爆笑に。

その後に、
番組MCの
「東野幸治」は、


「大会終わってから 


メールとかラインは

 したんですか?」

(『伊藤美誠』と?)


と質問すると、


「水谷隼」は、


「いや、


 僕はライン、

ブロック
 されているんですよ」

(『伊藤美誠』からは)


と返答。


これに
スタジオが
騒然となる中、


「水谷隼」は、


「東京オリンピックが 

終わって、


4か月くらいして

一緒に撮った写真を

  送ったんです。」


「で 


『写真送ったよ』

と送ったら、


全然

  既読にならなくて…。」


(それで) 


なんで?


言ったら


(『伊藤美誠』からは、)

『あー、

 もうブロックしてるから』


って

 言われて」


と告白。


これには、
番組コメンテーターの
「今田耕司」は、


(ペア組んでた) 


オリンピックで

びびってたからじゃ

 ないですか?」


と、
突っ込んでいましたね。


手厳しい


 対応でした。

いかにも”物憂げ”な雰囲気、アンニュイ感じや憂鬱、真反対に”どうでもいいコト”や日常・生活・俗物的なコトを考えている…などの表現に

”あれっ?
ー ”返信がない” ー
の図

case.6「城島茂」 の場合

番組の企画で、

福島県浪江町
の土地を開墾する

”DASH村”


での活動を始め、
福島県での
住民との
関わりが増えていく
最中で起きた

「東日本大震災」


あれから
 13年が経ち、

アイドルグループ
『TOKIO』

 リーダーとして、


また、
『(株) TOKIO』の
会社の
 代表として、


「城島茂」が
今、思うことの
インタビュアー
について

 迫ります。


今年1月下旬に、
元日に発生した
能登半島地震の
被災地で、
炊き出しの
ボランティアに
勤しんだ「城島茂」。


「城島茂」自身は、


「東日本大震災を 

きっかけに


日常が

非日常になることを

  知りました。」


「でもそこから、

自分の
物事への向き合い方
に対する


意識が

  変わりました。」


「能登半島の 

 みなさんも、


日常を早く
取り戻せる状況に
なってほしい


 願っていますし、


そのためには

まずできることから

  と思っています。」

(”ボランティア”や『募金』などで)


(生きる”気力”としての、) 


テレビ、ラジオ、

歌、

 コンサート。

 すぐには無理でも、

少しでも早く

そういったものを

楽しめる状況

 になるように、


行動していけたら

 と思っています」


と、
今年にあった
震災について、
言葉を掛けて
くれましたね。


そして、
「城島茂」の
意識が変わる
きっかけになった
東日本大震災。

13年前の
2011年3月11日に、
「城島茂」本人は、
その時、
福島県の浪江町
にいました。


当時は、
日本テレビ系列の
バラエティー番組
『ザ!鉄腕!DASH!!』
の企画でスタートした、
”DASH村”での
ロケ中に、
地震が発生。


当時の
福島県で、
震度6強の揺れに
襲われたと
言います。


「城島茂」は、


(村の中で、) 


その日は、

雨どいを

 作っていました。」


(防水加工のための、) 


柿渋を塗った木を

組み立てて、


それを乾かそうと

遅めの昼休憩を

  していたんです。」


(そして、) 


囲炉裏を囲んで

カレーを

食べているときに、

突然


ドンッ


何かが来た

という

 感覚がありました」


と言います。


当時の
「城島茂」たちは、
その揺れ方に
このままでは
その場の建物が
崩れると思い、

強い揺れの中で
あっても、
必死に外に
飛び出したと
言います。


その時について
「城島茂」は、


(例として、) 


『サザエさん』の
エンディングで
磯野家の家族が
次々と入って

家が揺れる
ところが
 ありますよね。


本当にそれくらい

 揺れていました。」


「でも、


かやぶき屋根で作った
 母屋の被害は、


土壁のひび割れ
以外は

ほとんどなかったんです。」


(その”母屋”は、) 


地元の大工の棟梁に
教わって

自分たちで
廃材を利用して
 作ったんですが、


釘を使わず
昔ながらの手法で
建てた家の

強さを

 改めて感じました」


(”震災に溢れる、
この日本で受け継がれてきた
技術に…”)


と言いますね。


その後は、
「城島茂」は、
メンバーや家族は
無事なのだろうか
と、
連絡を取ろうと
するものの、
携帯電話は
つながらない。

その他に、
テレビを
付けてみると、
太平洋の
沿岸部では
津波が来ている
との
ことだった。


その異様な事態に、
まるで
映画の世界で
起きている話
のようで、
リアルさを
感じることが
出来なかった
と言います。


「城島茂」は、


(地震により、) 


都市部は

建物の倒壊が多い


との
情報だったので


(福島の)
その場で
夜を
 迎えたのですが、

(続けて、)

どうやら


(福島県の沿岸にある)
原発が危ない


  と聞きました。」


(それから、) 


朝を待って

明るくなってから

 車で東京に向かって、

(東京までは、)

到着まで

11時間くらい

  かかりました。」

(混乱した時期のため)


「途中、


コンビニに寄っても

 棚に何にもないんです。」


(物資の買い溜めが、起き始めていた)


(これは、) 


ただごとではない

 と思いましたけど、

 まだこのときは、

(震災直後の様子が)
落ち着いたら

ロケを再開できると

 思っていました」


と、
当時を語ります。


けれども、
東日本大震災の
被害は、
想像をはるかに
超え、

福島第一原子力発電所の
事故の影響で、
放射線の値が
高い地域は、
立ち入りが制限されて、

それにより
そこに住む住民たちも、
県内外に散り散りに
避難する事態に…。


DASH村のあった
浪江町も、
町内全域が
避難指示区域
となりました。

浪江町は現在、
除染や
インフラ復旧を経て、
段階的に
避難指示区域が
解除されて
いますが、

DASH村を含む
浪江町の面積の

8割が今もなお、
帰還困難区域に
指定されています。


このことについて、
「城島茂」は、


「まさか 


(現地に、)
もう
立ち入れなくなる
っていう

 発想がなかったんです。」


(自身は、) 


 奈良県出身なんですが、

阪神・淡路大震災のときは

一人暮らしをしていて

  東京にいて。」


「でも、


 阪神・淡路大震災では、

同じ場所を
復旧させるという

概念が

あった


 と思うんです」


(”被災地”への、
立ち入り禁止も制限もなく…)


と、
当時の思いを
語ってくれましたね。


その後、
再び、
福島県浪江町の
DASH村を
訪れたのは、
震災から
1年が経った頃で、

『鉄腕DASH』の
番組の企画で、
DASH村の現地の
土壌除染の
実証実験を行うと
言うものでしたが、


放射線の
影響により、
番組での立ち入り
を許可されたのは、
2時間だけでした。


その時について、
「城島茂」は、


(当時、) 


いつも
行っていた場所に
 行くのに、


なんで
許可がないと
だめなんだ


 と思っていました。」


(自分にとっては、) 


すでにあの場所は
ホーム
(自宅や故郷)

のような

  感覚だったんです。」


(それが、) 


 防護服を着て村に入って、

  愕然としました。」


(放置された”村”の、) 


 どこが畑で、

どこが田んぼか

わからないくらい


背が高い草木が

  生い茂っていて。」


(村は、) 


土地を耕して

11年かけて

いろんなものを

 作ってきたのに、

1年でこんなに

  なってしまった。」

(たった”1年”あまりで…)


(今まで、) 


 ずっと心の中で、

作業が
途中だったことが
気がかり
 だったんですが、

母屋の割れた
 窓ガラス越しに、

地震で中断した
雨どいが
そのまま残っているのが
 見えて、


切ない気持ちに
なったのを

 覚えています」


と言います。


そんな
複雑な思いを
抱きながらの
訪問でしたが、

しかし、
その他に、
1年ぶりに
福島の住民と
再会を果たす
こともでき、
「城島茂」は、
そのことに喜んで
涙が溢れた、
と言いますね。


その時について、
「城島茂」は、


(住民と再会した時、) 


お互い無事で
よかったね

  言い合いました。」


「でも、


 酪農をされている方が、


もう
 酪農はできねぇな、

牛は
置いていくしか
なかった

(”放射線”の影響で)

って

ポツリと言った
ひとことが


いまだに
耳を
  離れないんです。」


(あの時の、) 

あの状況では、

自分たちだけが
避難するしか
 なかった。」


(”震災”が原因の) 


被害はさまざまですが、


見えない
放射線の影響で
住んでいた場所に
戻ってこられない
という


無念さは

  みなさん同じで。」


(それに対して、) 


自分が

何もできないことが

本当に

 悔しかったです」


と、
語ります。


また、
福島の原発から
距離として
30キロほどの
ところにあった、
DASH村のある
浪江町津島は、

その近さのため、
福島県内でも
原発による
放射線量が高く、
ニュースでも
取り上げられる
ことが
多かったの
ですが…、


「城島茂」は、


(ニュースにより、) 


あそこは

もうだめだ


って

(浪江町を)
人に言われたら

  腹が立ちました。」


「例えば、


うちのおかんに

自分は
いろいろ言うけど、
(言われるけれども、)


他人から
(何かを)
言われたら

腹が立つのと

  同じですね。」

(言い掛かり的に)


(DASH村のあった地域は、) 


山に囲まれていて
地形的に風が
 停滞しやすいので、

(米)
いもち病も
(病気)

  発生する。」


(また、) 


盆地で
 暑いし寒い。

 荒れ地を開墾して、
初年度に作った
米や野菜は

 出来が悪かったんです。」
(正直に言って)


「でも、

そういうものほど


  かわいいんですよ。」


(当時は、) 


 みんなで刈り入れて、
かまどで炊いた

米の
  おいしかったこと。」


「村人とメンバーと 


縁側に並んで
炊き立ての
 米を食べたんですが、

この記憶は

  一生残るんだろうな。」


「本当にいい場所ですよ」


と、
語りますね。


それから、
『TOKIO』は、
風評被害を受けた
福島県産の
農作物などの
PR活動に励み、
県のCMにも
毎年起用されて、

県庁には
「TOKIO課」も
設置され、
長年の活動で、
福島を応援する
『TOKIO』の
イメージも世の中に
浸透して行きました。


それについて、
「城島茂」は、


「自分たちは 


何かを伝えることは

できると

  思ったんです。」


(これまで、) 


何もできないと

 思っていたなかで、


 手段があるというのが、


ひとつの

  救いになっています。」


「野菜や米も 


しっかり検査をして、

  数値化して。」


「その過程を 

  直接見てきました。」
(『TOKIO』は)


「生産者さんは、


ここで生活をして
一生懸命頑張って
  いらっしゃる。」


「そういう方々の 

取り組みを

 伝えていくのが、

福島とつながりがある
自分にできることへの
答えなのかな

 と思います」


と、
語りますね。


そして、
福島と共に
歩み続けるための
プロジェクトも
動き、

『TOKIO』は、
今からおよそ
3年前の2021年に、
福島県の
南部の西郷村に
土地を購入し、

東京ドーム2個分の
広さがある
その場所を、
『TOKIO-BA』
と名付けて、
そこでは
産直野菜のマルシェや、

マルシェ
(フランス語:marché )
とは、
市や市場のこと。


収穫体験などの
イベントを
定期的に開催して
います。


そして、
『TOKIO』の
現在について、
「城島茂」は、


「TOKIOのメンバーが 


5人から
 4人、3人となって、

次のステージを
どうするか
 考えたときに、

これまで
いろんなものを
作ってきたけど

会社を
つくったことは
ないよね

という
ところから
  始まったんです。」


(その時に、) 

DASH村での
 経験をもとに、


何もない場所を

一から自分たちで

  切り開いてみたい。」


(メンバーの) 


(国分)太一の
アウトドア好きを
生かして

 キャンプをしたり、
子どもも大人も
遊べたりするような場が
あったら

  いいよねって。」


(じゃあ、) 


 それをするなら絶対、

場所は

福島でしょう

というのも

3人一致して

 いました」


と、
言います。


『(株) TOKIO』
について、
その社長に就任した
「城島茂」は、
そのことについて、


(メンバーの、) 


松岡(昌宏)が、


神輿は
軽いほうがいい

  って言うんです。」


(『(株) TOKIO』は、) 


3人しかいない

 会社ですから、


2人は

 副社長なんですけど、


 太一が企画で、

松岡が広報と

それぞれに

  役割をつけました。」


(グループとしての) 


『TOKIO』は
昔から
それぞれに
 意見を持ち寄って、


ああだこうだ
言って
  決めているんです。」


「そのやり方は 

 今も変わらないのですが、


自分が代表となって

3人で
 会社をつくってからは、

 物事の舵取りや、

判を押すのも
 そうですけど、


より自由度が増した

  と思います。」


「これまでの 


企業に所属する
タレント
 としての立場から、


自分たちで決めていく
 プロセスを通じて、


新たな一歩を
踏み出している
  実感があります。」


(そのためか、) 


全員が
 そろう仕事があると、

よく話し込んで
 いますね。」


「それこそ 


福島駅前の

  喫茶店でも。」


(”3人”だけの会社で) 


 3人で話したら、
臨時取締役会
 なんですけど。

ただ、
自由度が広がった分、


慎重に
見定めていく責任も
感じながら
 取り組んでいます」


と語ります。


また、
昨年の
所属していた
旧事務所の
性加害問題が
明るみとなり、

そこに
所属するタレント
の出演や広告起用
などの打ち切りが
相次ぐことに
なった時に、

『TOKIO』も
その影響を受ける
中で、
福島県は、
『(株)TOKIO』との
事業を継続していく
旨を明らかにして、

県が公表した、
その時の
コメント文には、


(福島県としては、) 


TOKIOの皆さんは


(中略)


私たちが
風評被害などで
 最も悩み、
 苦しんでいた時も、

 福島に寄り添い続け、
福島県民を
 勇気づけてくれた。


(中略)


今後も変わらず
福島県を
 応援していただきたい」


との言葉を、
『TOKIO』は
頂いていました。


これについては、
「城島茂」は、


「もう、


ありがたいの

  ひとことです。」


「県民のみなさんも、

県庁の方も含めて


 そう言ってくださって。」


「普通だったら、


(大きな問題に対して)
お叱りの声があって
然るべきだと
  思うんです。」


(しかし、) 


知事とはたびたびご
 一緒させてもらっていて、

この件(表明)
お礼の電話で

お話しさせて
 もらったんですけど、


『やはり 

こんなときこそ


TOKIOを


 いう声が多くて』


  伺いました。」


「正直、


涙が出そうに

  なりました。」


(福島には、) 


 助けられているな、

また
恩返しを
していかなきゃな


 思いました」


と、
語ります。


インタビュー中に、
「城島茂」の表情が
最も和らいだのは、

『TOKIO-BA』で見た
光景について
でした。


その光景について
「城島茂」は、


(『TOKIO-BA』の) 


 池に、

イトトンボが

  2匹飛んでいたんです。」


(”2匹”は、) 


つがいだったんですが、


メスが
卵を産んでいる
ところに、

オスが
付き添って
  守っているんです。」


「その光景を見たら、


こんなに小さくても
大切な命を

次に
つなげているんだ



  思いました。」


と、
何気ない自然の
営みの中で
感じ取ったと、
語っていましたね。


儚くて淡い、
命の存在でも、
懸命に、
力強く、
生きている
ようです。


それから、
続けて
「城島茂」は、


「自分が生きた証しって、


最大の足跡は
次の世代にバトンを
渡すことかな


  思うんです。」


「TOKIOが 

大好きな言葉なんですけど、


 共に創り上げると書いて、

  共創。」


(まさに、) 


TOKIO-BAは

そんな場所に

  したいんです。」


「僕らが教わってきた 


創る喜びを
次の世代に
伝えられたら

  いいですね。」


「例えば、


ここ
(『TOKIO-BA』)

 家族で訪れて、


 5年後、
10年後に
  大切な人と来て、


そのふたりが
 結婚して、
次の世代と一緒に
  この場を訪れる。」


「そのとき 


TOKIO-BAに

『これ昔、

お父さんが
 作ったんだよ』


語り継げるような
ものが
 あったら面白いし、

(そのように、)

それぞれが
生きた証しが
刻まれる場所に
なったらいいな


 思っています」


と、
言いますね。


歩みを止めない
『TOKIO』と
「城島茂」に、
”活動の根源に
あるものは何か”
と、
問いかけると、

「城島茂」は、
20年以上にわたって
福島で活動する中で
見てきた、
『師匠』の話を
口にして、


「城島茂」は、


(これまでに、) 


技術を
教えていただいた
方を

尊敬の意味を込めて
師匠と
 呼んでいるんですが、

みなさんに
共通することが
  あるんです。」


「DASH村でTOKIOに 

農業を教えてくれた

三瓶明雄さん(故人)は、


カンナも重機も
何でもできる
スーパーおじいちゃん
だったのに、

口癖が

『まだまだ』

  でした。」


「他の福島の方も 

同じことを

  おっしゃるんですよ。」


「その道のプロは、


一様に
自分の現状に
  満足していない。」


「その背中を見ていたら、


師匠たちのように

日々努力しなきゃ

 と思うんです。」


(現状でも、) 


 まだまだ、


言い聞かせて


常に自分に
 できることは何か、


問い続けて

 いきたいです」


と、
その”原動力”を
語りますね。


災害や困難を含めて
様々なことを
”糧”にして

進む人たちの
 お話でした。

突き進みや進行、山や坂を超えるなどの表現に

”一歩”
ー ”前に” ー
の図

おわりに

今回は、
様々な
有名人の話題について
見ていきましたね。


どの話題も、
”話題性”がありました。


 しかし、今回は、
たくさん
考えさせられる
 話題がありましたね。

 日々、
取り組んで行きたいと
 改めて思いました。


また、
そんな話題の中の
エンタテインメントの
彼女や彼らの活躍に

期待したいとも
 思いました。

瞳

ー ”期待の目”の図 ー

コメント